沿革

紫雲書道会は昭和5年(1930)藤田讃陽先生によって創設された。高松の栗林公園の背後に聳える紫雲山からとった名称である。


先生は明治26年(1893)香川県丸亀市の生まれ。香川女子師範学校、高松商業の教師を経て、昭和7年(1932)に木俣曲水を頼って上京、書道教育に一生を捧げようと決心し、文検(文部省の中学、高等女学校、師範学校の教育免許状取得のための検定試験の略称)を志望する者の指導に心血を注いで当たった。 指導者として古典に基づいた穏健中正な書風の確立が求められていた時代、先生は書品の高い書をわかりやすい講義と実習を通して指導された。書道教育上果たした役割はきわめて大きく、文検に合格した受験者の実力は高く評価された。先生は「紫雲」誌と共に、小学生を対象とする雑誌「芽生」(めばえ)も毎月発行し、多い時には合わせて5万部を超えていた。


 戦後学制が変わると、先生は東京書籍発行の小中学校用の検定教科書の筆者となる。先生の書風によることはもちろんであるが、かって指導を受けた文検合格者が全国各地の中心的な指導者となっていたことも幸いして東京書籍は日本一の圧倒的な発行部数を占めた。また、日本女子大学、東洋大学の書道講師として指導に当たるかたわら、全国各地の教師を対象とした講習会でも活躍、書道教育の底辺拡大のために尽力した。


 晩年になってからは土曜、日曜を自宅での稽古に当てていた。 この門下生が中心になって、昭和37年に銀座画廊(現在のセントラルミュージアム銀座)で第1回紫雲書展が開催され、先生亡き後も令和4年の第60回展に至るまで続いている。


 晩年、病を自覚された先生は毎日1枚ずつ体力の続く限り般若心経を謹書した。昭和38年4月8日永眠、享年70歳であった。墓は武蔵野市の源正寺にあり、その墓碑は豊道春海翁の筆による。


藤田讃陽先生最後のお言葉

 〇名利のために節を屈せず。

 〇人生70年古来稀なり 天命を全うす。 感謝あるのみ。

 〇宇宙の大生命に帰一 不生一死 

 

 紫雲書道会は創設者、藤田讃陽先生の志を踏まえ教育書道の理念に則り、古典臨書を基礎とした穏健中正な書風を追求する。毎月機関誌「紫雲」の発行、競書審査、その他紫雲展開催、書道全般にわたる知識の獲得等々、書の基礎についてはもちろん、人間的な教養も身につけるべく運営努力している。 

紫雲書道会創設者

藤田讃陽先生